THE FIGHT ROUND40
〜こんなバスは嫌だ〜
さて、帰国便は入国時と同じくガンジー国際空港からのため、今日はデリーへ戻らなければならない。大変お世話になった宿のおやじに別れを告げ、バス停に向かう。 そろそろインドの旅も終わりである。一ヶ月弱という短い期間とはいえ、感情を押し殺して暮らしている日本での平凡な生活と違い、ある時は心から怒り、またある時は心から怒り、そしてある時は心から怒るという、喜と哀と楽が足りない喜怒哀楽に満ちたインドでの生活。そんな感情豊かなこの生活ともあと一日でお別れだと思うと、なぜだか目頭がジンと熱くなるのを感じる。 ちょ、ちょっと待ってくれ。 なんだこの涙は? お、おかしいぞ。あんなにインドに打ちのめされたじゃないか。あんなに苦しんだじゃないか? それなのに、いざ別れを前にした今、このオレが涙だって? もしかして、心の底ではオレもこの国を愛してしまったのだろうか? 騙され、怒鳴り合い、腹痛で転げまわったこのインドという国を…… オレは自分の正直な心に問い掛けてみた。「おまえは、本当はインドが好きなんだろう?」と。 オレの心は言った。 「オレは……オレは……。たしかに口では悪く言っていたけど、本当はインドが……人間味溢れるインドの人々のことが……大好きなんだ! ……なんて推薦図書になりそうな無難なコメント言うと思ったら大間違いなんじゃこのボケが―――っ! 人を騙して金を取ったり旅の邪魔をしたり旅行者を監禁したりする奴らを好きになるわけねーだろーワレっ! これは嬉し涙じゃーっ! こんな国二度と来るかこのヤロ―――っ!」 ……。 いかにも。 インド人どもめ……。 オレの過去の別地方への旅を思い出してみると、たいてい帰国日が近くなるとオレは天皇の位を退いてもなにかと政治に口を出す後白河上皇のようにとても未練がましくなるのだが、今回ばかりはオレのネクタイが帰りタイになっている。 デリー行きのバスには、待つこともなくすんなりと乗り込むことができた。幸いにして、このバスは決して新しくはないものの、昨日のものとは違い10回中8回くらいは目的地に到達できそうなごく普通のバスだった。このバスならゆったりと移動時間を過ごすことができるだろう。なにしろアーグラからデリーまで、都会と都会を結ぶ路線なのだ。特に書くほどの出来事は何も起こらずに、6時間後にはデリーに到着しているはずだ。 相変わらずアーグラの大通りには車と人とリクシャが津波のように押し寄せており、バスはなかなか進むことができない。もし初心者の歩行者がこの人の波に飲まれたら、いつまでも抜け出せず、カザフスタンあたりで痩せこけた姿で発見されることになるだろう。バスに乗っていてよかった。 相変わらずアーグラ市街は車と人とリクシャの洪水で、バスはなかなか進むことができない。まあその分、最後になるアーグラの風景を心行くまで見ておくことができるのだが。丁度窓際の席に座ることができたため、窓を開けて外の空気を吸いながら景色を眺める。 ところが、ここでちょっと不愉快なことが起きた。 オレの前の席に座っていたのは2人の子供を連れたインド人のオバハンだったのだが、彼女は体調が悪いのか、時々窓を開けては外へ向かって唾を吐きはじめたのだ。 気持ちよく窓の外を眺めていると、5分おきくらいにオバハンが「カーッ! ペッ!」と喉をならし、オレの目の前でビチャッ! と年季の入った唾が飛んでいく。 まったく。インド人はなんで道に唾を吐くことが平気なんだろうか。お国柄の違いとはいえ、唾を吐くだけで罰金になる国もあるのだ。 まあオバハンも体の調子が悪いのなら仕方が無い。普段から心がユースケサンタマリアの活動範囲のように広いオレは、あえて気にしないようにしていた。 しかし、市街を抜けて高速道路に入った時、悲劇は起こった! 街を抜け、次第にスピードを上げるバス。吹き込む風が強くなってきたため、オレは窓を閉めた。 明日の出発まで少し時間があるため、どこかデリーで行くところはないかと、地球の歩き方を見て考えることにした。前の席では、相変わらずおばはんが窓を開けては外へ唾を吐いている。 明日はデリー動物園に行こうか。それともラールキラーか。そうそう、インド門にもまだ行ってないな。できるだけ多くの所に行きたいのだが、時間も限られているためそうもいかない。この中から少しだけ選ぶのは難しいものだ。 ……ん? なんか、窓の外に気配を感じるぞ? 雨でも降ってきたのだろうか。折り畳み傘を出さなければいけない。面倒くさいな……。 読んでいた地球の歩き方から目を上げると、たしかに窓を横殴りの雨が打ちつけていた。 ……。 でもちょっと待てよ。どうも雨にしてはちょっとネバついているような気がするな。それにおかしいな。反対側の窓は雨降ってないしな。 ん? 「カーッ! ペッ!!」 びちょーん 「カーッ! ペッ!!」 びちょ〜〜ん なーんだ。オバサンの唾か。雨じゃなかったんだ。よかった。 おんどりゃあっっ!! このクソババぁ!!!!!!! そう。ゆっくり走っていたからこそさっきまでは吐く唾は地面に落ちていたのだが、時速80キロで走行するバスの窓から液体を放出した場合、それはすべて後ろの席で受け止めることになるのだ。 窓閉めててよかった!!!!!!!!!!!!!!!!! もし高速に入った時点で窓を閉めず少しでも開けていたら、日本では「作者さんって結構あっさりした性格してるよね」とよく言われるオレも、今日を境に粘っこい性格に生まれ変わるくらいネバネバする羽目になっていただろう。 オエッ もはや窓の景色はすべておばさんの唾液ごしで見なければいけない。粘着質の液体の中でユラユラと揺らめく街並は、蜃気楼を見ているようである意味幻想的ではあるのだが、本物の蜃気楼はこんなにダラダラと垂れていかないだろう。勘弁してくれ。 よし。こういう時は、おばはんの唾のことなど忘れて、何か他のことを考えた方がいい。イヤなことを忘れて集中できること……難しい計算なんかしたら集中できていいかもしれない。そうだ。そうしよう。何か身近なことで計算問題を探そう。 うーん、そうだな……バスが目的地に到着するまでにオバハンが唾を吐く回数を求めよなんてのはどうだろう。 5分に一回唾を吐くとして、デリーまであと4時間〜5時間だから、60分÷5=12、12×4=48、12×5=60だから、48<x<60回(xはオバサンが唾を吐く回数)だな。 おえっ 席替えだっ!! この状況を脱するには席を替わるしかない!! バスの中を見回すと、ほぼ満車に近い状態だったのだが、一番後ろの座席の左端、唯一その席だけに人が座っていなかった。 混んでいて身動きがとれない為、一度バスが停車するまで待つことにする。まだバスが停まるまで時間がありそうだ……。オバサンから発せられる毒液は、容赦なくオレの右側20cmのところで窓にへばりつき、風に煽られて異様な動きをしている。 こんな事に気をとられてはいかん! 何か高尚なことを考えるんだ! 集中だ! よーし、キン肉マンに出てくる超人でしりとり。インドだからカレークックからね。 カレークック→クモのコチラス→スクリューキッド→ドクターボンベ→ベンキマン あーっ!! それじゃあ次は、魁! 男塾の大威震八連制覇以降に登場した敵キャラの…… ビチョーン お! バスが止まるぞ!! 休憩所のような所に入ってバスは停車した。移動するなら今だ! すかさずバックパックを持ち、隣のインド人に無理言って席を立つ。人の間を掻き分け、他の乗客にかなり迷惑がられながら最後部座席へ向かう。なぜか1箇所だけポツンと空いている、端っこの座席へ移るのだ! バスの後部にたどり着いたオレは、念のため空席の隣に座るにいちゃんに聞いてみた。 「その席空いてるの?? そこいっていい?」 「なに?ここか?? ああ、別にいいけど」 狭いスペースに割って入り、いざ目的の席にたどり着いたのだが、イスの上に何か白いものが置いてある。これは誰かの荷物だろうか? にいちゃんはここに座っていいと言っていたが、誰かが荷物を置いて場所を確保しているのだろうか。 しかしよく見ると、その白いものは荷物というより、液体と固体の中間のような、それでいてちょっと乾燥しかけているようなどこかで見たことのあるような物体だった。そうそう。金曜の終電なんかでよく見るあれだよ。あれ。 ゲロでーす。日本語に直すと吐しゃ物でーす! 英語ならmatter vomitedでーす! さすがにそれを見ていくばくかの動揺はおぼえたのでありますが、ここまで来てもう引き返せない空気が漂っていましたし、戻ればまたあの毒液地獄が待っているため、わたくしは観念して座ったでございます……(さめざめ泣)。 勿論ゲロの上に座れるわけねーだろ!!!! 必死の半ケツです。 半ケツはきつい。だがもし腰を降ろしてしまえば、少し乾燥しているとはいえ、ズボンの中、いやパンツ、いや生尻にまで奴は到達してくるだろう。 しかし元の席に戻れば外の景色の代わりに絶え間なく降り注ぐおばさんの唾液を見ることになり、かといってこの席では窓を開けることはできるがケツを降ろしたらインドでもんじゃだ。 (T.T ) ( T.T) どっちに行ってもボクは結局ヨゴレてしまう運命なんだね…… ビアンカとフローラのように、どちらかは必ず選ばなければいけない運命だとしたら、まだもんじゃの方が日本を思い出せるぶん、心が和んでいい。 そこからデリーまでの数時間は、まさに自分との戦いだった。 みなさんは、尻がつりそうになったことありますか? 何度も限界を感じ、諦めかけては自分を励まし、半ケツを保つ。時折弱音を吐くもう一人の弱い自分を、必死で説得する。 「もういい! こんな辛い体勢をとり続けるんなら、ひと思いに汚物にまみれた方がマシよ!」 「なに言ってるんだ! おまえはそこまでの人間だったのか?おまえの尻はそんなもんだったのかよ!!」 「苦しい……苦しいのよ! 辛いのよ!!!」 「何のためにこの1年頑張ってきたんだよ! おまえは誰よりも厳しい特訓を耐え抜いて来たじゃないか! まだデリーまで半分もあるんだぞ?こんなところで勝負を捨てるのかよっ!!」 「しょうがないじゃない! アタシだって、精一杯頑張ったのよ! でも、所詮私なんかこの程度の人間なのよ。アタシなんて、どうせアタシなんてホリプロスカウトキャラバンに応募しても書類審査で落とされるのよっ!!」 「バカヤロー!!!」 バシッ! 「きゃっ」 ヘナッ 「……」 「……」 「いいか、よく聞け」 「……」 「たしかにオーディションは厳しい。だけどな、たとえ今回書類審査で落とされても、次は地方会場での面接くらいまで進めるかもしれないじゃないか。そして諦めずに頑張ってさえいれば、最終的には女だらけの水泳大会でポロリ役くらいにはなれるかもしれないじゃないか!!」 「作者さん……」 「さあ、もうちょっと、もうちょっとだけ頑張ってみようよ。ほら、見てごらん。天国のひいおばあちゃんもおまえを応援してるじゃないか!」 「おばあちゃん……。うん。わたし負けない。わたしきっと、きっとひいおばあちゃんを超えるプリマドンナになって見せる!!」 「よーし、その意気だ!」 ……。 ……。 デリーに到着した時、オレはあまりのケツの辛さに気を失いかけていた。 だが、もう一人のオレの必死の励ましで、遂に、決して最後まで半ケツの状態が崩れることはなかった。満席状態のバスの中で、たった一人でインドの汚物と戦い続けたオレ。圧倒的に不利だと思われるこの状況でも、最終的にちょっとしかズボンを浸されずに済んだということは、ほぼオレの完全勝利と言うことができるだろう。 だが闘い終えてオレは思った。 もうインドは十分だと。 さあ、帰ろう。 |