THE FIGHT ROUND27

〜たすけて柳瀬くん〜



 まだデリーへの2等車両の旅は道半ば。
 真夜中に目を覚ますと2人の見知らぬバアさんが足の上に座っているという、とっても貴重な体験をしたオレ。しかしそんな恐怖体験もすぐに忘れ、再びウトウトとしていた時だった。
 彼はやって来た。
 インドを旅すれば必ずその洗礼を受けることになるという彼。

 ……ハラいてー。

 ま、待ってくれ。到着までまだあと5時間以上あるんだぞ。
 なによりここは、腹痛が許される場所ではない。そう、ここは自分の家じゃない、インドの2等車両だ。確かにトイレはあることはある。だが、日本の自宅のトイレがデビ夫人の豪邸に見えてくるくらいの思い出に残りそうなトイレである。バクテリア界のデビ夫人が住んでいそうな、しかも水の出ないトイレ。
 写真でも撮ろうものなら一瞬でメモリーが破壊され、「すいません、インドの2等車両のトイレを撮影したらデジカメが壊れたんですけど。」と日本に帰ってサポートセンターへ電話をかけても「それはサポート外です」と言われそうなトイレ。
 とはいえ許される許されないに関わらず腹痛はやってくる。ちびまる子ちゃんも言っていたが、腹痛には波がある。最初こそ「このくらいなら到着するまで大丈夫かな……」というくらいの軽いものだったが、回数を重ねるにつれ内臓を締め付けるような激しい痛みに変わってくる。
 イつつつつ……・
 いいってえ〜
 まじでいて〜!!

 腹に毛布を巻きながらふと思った。なんかおかしいぞ? 普通の腹痛と違うのだ。腹が痛いのに、トイレに行きたくない。ただただ下腹部を襲う激痛。
 この痛み。この症状。どこかで経験したことがある。3ヶ月前くらい。
 ……まさか、そんなはずがない。
 いや、しかし、あの時と同じこの状況は……もしかして、盲腸再発??
 たしかに「トイレに全然行きたくないのに腹だけがめちゃいたい」という、「キティちゃんの体重はリンゴ3個分」と同じような意味不明な症状は去年カジノで豪遊中に味わったものと全く同じだ。
 アメリカで除去した盲腸がインドで再発。なんてワールドワイドな内臓! 英語で言うとworldwideな内臓! もしかして、手術で切断した盲腸が引退したプロレスラーのように数ヶ月で復帰して暴れだしているなんてことは!?
 もし盲腸だとしたら……手術?
 インドで手術。インド人が執刀。

 ……。

 ダメだ!! 手術が終わって気付いたら金になりそうな内臓全部なくなってるなんてことになりかねん!!! 体重が減るのはいいが、内臓が無くなったら立っていてもペラペラでくにゃーんと折れ曲がってしまいそうだ。
 果たしてこの腹痛はなんの腹痛なのか?インド名物下痢でもない。それなのに世界一の観光地ラスベガスでERの手術室の観光をする羽目になった盲腸をも彷彿とさせる激痛。これはやばい。
 本当に盲腸が再発してしまったのか、それとも新たなる病気なのか……。
 でも良かったといえば良かった。この環境で下痢にでもなったらどうなるかわかったもんじゃない。あーほんと良かった。トイレに行きたくなくて。トイレに行きたくないおかげでトイレに行かずにすむし。トイレに行きたかったらあのおぞましいトイレに行くハメになってしまう。よかった。トイレに行きたくなくて。……。トイレに行きたくなくて。……。トイレに行きたくなく、行きたくな、、いきたくなくなくな……

 ……。


  きたーっ!!!

 ゴロゴロロゴリョリョロロ……

 はあうっ!
 ついにやってきました。噂のあいつ。これがなきゃインドに来た気がしないね! これでオレもインド旅行者一人前。日本を出る前から覚悟していたことだし、いつかは経験しなきゃいけないことだしな!
 そう!
 だからといって、ここで来るんじゃねー下痢!!!
 やばいやばいやばい。やばい。
 この時点でのオレの選択肢。

1.あと5時間耐える。
2.人間の尊厳を捨てトイレに行く。

さーて、どっちにしようかな2番ファイナルアンサー。

 悩んでる場合じゃない。すでにオレの腸からは何かを煮立てているような怪音が発せられている。2等車両のトイレは汚い? 汚いの上等。今のオレの頭からはとっくに汚さの基準が消えている。あとは……水だ! そう、ここのトイレは水が出ない。1等車のトイレに行こうとしても車両間は完全に塞がれているため脱出は不可能。普通は乗車する時に自分用の水を持参してこなければいけないのだが……ここにあるのはミネラルウォーターの飲みさし500ミリリットルくらい。これでは1回だけ尻を流せるかもしれないが、尻を拭いた手を洗う分が無い。それこそ本当に自分のおしっこで手を洗わなければならない。
 これはピーンチ!!
 はっ! そうだっ!!
 忘れていた。オレには、オレには……秘密兵器があったんだ!
 まさしく秘密兵器。ここまで使わなくてよかった! ああ、なんて愛しく見えるんだ、トイレットペーパー!! 何か起きた時のために1ロールだけ持参していたのだ! そして今まさに何か起きている!! 今使わなくていつ使うんだ! こんなにも、崇拝したくなる程トイレットペーパーが素敵に見えるのは今まで24年間生きてきて今日が初めてだ。
 トイレットペーパー様を丁重に抱え、車両の奥へと向かう。しかし、通路もトイレ前もインド人だらけ。猫一匹の入る隙間も無いほどだ。無理矢理猫一匹入れてみたとしても、すぐに調理されるか土産物にされるかどちらかだろう。
 床に座り込んで、ある者は眠って、ある者はオレの行動に注目している彼らをかき分けトイレに入る。

 はああ〜っ、トイレ最高(細かい描写は避けます)。

 暗くて見えないが、おそらくこのトイレはただの穴なので全て線路上に垂れ流しのはずである。線路上に落ちた使用済みトイレットペーパーは、ノラやぎが食べたり、近所のインド人が拾って乾かしてメモ帳にしたりするのかもしれない。
 一通り終わって、中学時代全校生徒の前で生活体験文を読み終えた渡辺くんのようなすっきりした顔で席へ戻る。
 いやー。命拾いした。これでもう大丈夫だろう。おそらくもう一眠りして目が覚めた頃にはデリーに着いているだろう。
 いやはや。

 はあうっ!
 ゴロゴロロゴリョリョロロ……

 ちょ、腸が、腸が〜……
 電車に乗っている間だけで10回はトイレに行っただろうか。あまりにも何回も通ったため、気が付くとトイレ前の通路に座っているインド人とはちょっとした顔見知り。軽く挨拶まで交わす仲に。トイレに行き、すっきりして席に帰ってきてはまたすぐ悶えながらトイレに行くという行動を繰り返しているうちにだんだんと空が白み始め、いつの間にやら朝になった。

 よし……もうすぐ、もうすぐデリーに着く……。あとちょっと、あとちょっと我慢すれば……。オレは荷物から替えのシャツを取り出し、すでに腹にグルグルと巻かれている毛布とバスタオルの上に重ねた。消費者団体から過剰包装だとクレームが来そうではあるが、オレの腹の最大の消費者はオレだ。文句は言わせない。
 さすがにこれだけ暖めればしばらくは腹痛も治まるだろう。暖めすぎて腹から冬眠中の熊が間違えて出てきてもおかしくないくらいだ。よし。あとは7時の到着を待つだけ……

 はあうっ!
 ゴロゴロロゴリョリョロロ……

 トイレットペーパー王妃を抱え、またもや数十人の視線を浴びつつトイレへ向かう。もはやオレの腹痛はどんな包装でも満足できないようだ。しかしオレが再度腹を折り曲げながら自分の席に帰ってきた時には、乗客はいなくなっていた。そう、ついに終点に、デリーに着いたのだ!





※この時は病院を信用できないと思っていた僕ですが、
実際はインドの医学はかなり発達しているそうです。










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