レイチェルの事件に関する詳細、彼女の思い出、そして将来について
ジョセフ・スミス氏のコメント


私の名前はジョセフ・スミス。アメリカ、ミズーリ州カンザス出身の21歳。
私はISM(International Solidarity Movement→国際連帯運動)の人達と共にラファで約2ヶ月働いている。少なくともあと1ヶ月はここにいるつもりだ。そしてアメリカに帰る前に、今度はイスラエル側で平和活動を行うことを計画している。帰国後は、パレスチナ、そしてラファで起こった出来事を公演やメディアを通して人々に語っていきたいと思う。また、パレスチナの問題やそれ以外の人種、戦争の問題に関して圧力を加え、問題意識を起こさせるようなデモやイベントを組織していきたい。そして秋から再開するアイオワの大学での勉強も引き続き行っていきたい。

ISMは、イスラエルによる占領に対して様々な国のボランティアが非暴力で抵抗する、パレスチナの民衆のための組織である。
我々はパレスチナに住み、パレスチナで働き、占領下での軍による暴力について具体的な報告を作成している。
我々はパレスチナの人々と団結し、日ごろから彼らが強いられる苦痛や危険を共有している。また我々にとって重要なことは、彼らが世界から忘れられていないこと、世界中から来る人々が今までの快適な暮らしを中断してまでパレスチナのために危険を冒すことをいとわない、ということを彼らに伝えることである。
この活動を通じて、我々はパレスチナの人々と世界を繋げられたらと思っている。そして我々は独自のメディアや国際報道、そして大使館を利用して世界の目をパレスチナの窮状に向けさせようとしている。
また我々は、イスラエルによって行われている残虐な人権侵害に対しての監査役として働き、彼らの破壊行為を記録しなければならない。我々がこの地域にいる唯一の外国人であることが多いからだ。ラファはあまりにも危険であるために、国際報道機関や国連はここで活動することを躊躇している。

私がパレスチナに来てISMのメンバーと共に働くことを決意したのは、中流階級に属するアメリカ人、白人としての特権を利用し、ヨーロッパやイスラエル、またアメリカによって虐げられている違う人種の人々を救いたかったからだ。私は、自分が白人であるがゆえに受けている特権は、それ以外の人々の苦しみから生まれるものだと思っている。私はそういった冷遇されている人々を助けたい。彼らの苦痛によって自分達が恩恵を受けるようなことは、決してあってはならないと思う。


以下は、3月16日、レイチェルが殺された日に私が見た事実である。


3月16日、レイチェルの事件について

11:00-13:00
当日、我々は2つのグループに別れて、井戸と工事現場でのボランティア活動を行っていた。そこは国境近くのため危険で、時々イスラエル軍がパレスチナ人の作業員や近くで遊んでいる子供達を撃っていた。

13:00-13:30

工事現場にいたISMのメンバーが、2機のブルドーザーと1台の戦車が国境近くのパレスチナ人の土地に侵入し、家屋を破壊し始めたのに気付く。近隣の建物への被害が予想されたため、メンバーは近くの家の屋根に登り(こうすれば、基本的に外国人を殺さないことになっているイスラエル軍は家屋を破壊できない)、他のISMメンバーを呼んだ。

13:30-14:00
私もその現場に到着した。我々は、ブルドーザーの破壊活動を停止させようとした。ゆっくりとブルドーザーに近づき、彼らが活動を行っている近くの建物で待機した。
1台のブルドーザーが、我々がいる建物を破壊し始めたので、スウェーデン人のメンバーが建物の端に座り込み、彼を傷つけずに家を壊すことを不可能にした。(外人を殺さないという原則が一応イスラエル軍にはあるので、つまりこれで家は守られたということ)
その時、井戸でボランティア活動を行っていたレイチェルと他の2人のメンバーが、ISMの旗とメガホンを持って合流。レイチェルとイギリス人のメンバーは、よく反射するオレンジの蛍光色のジャケットを着ていた。

14:00-15:00
我々(ISM)の広報担当部署が、アメリカ、イギリス、それぞれの大使館に対して、イスラエル軍がブルドーザーで破壊活動を行っており、アメリカ人、イギリス人メンバーが危険に晒されていることを報告したが、大使館はなんの対応も示さなかった。

ブルドーザーはさらに建物を壊し続け、我々はその進路に立ち塞がり続けた。ある地点で、コンクリートの柱がスウェーデン人のメンバーを直撃しそうになったが、彼はかろうじてかわすことができた。我々は、この後ろにある2軒の家が標的になることを予想して、2人のメンバーをそれぞれの家の屋根に配置することにした。私もそのうちの一人に選ばれ、一軒の家の屋根に登った。
レイチェルと他の2人のメンバーは、畑や、そこに植えられている植物をなぎ倒そうとしていた他のブルドーザーの前に座り込んだ。ブルドーザーはほとんど彼女達にぶつかりそうになるくらいまで接近したが、結局彼女達を傷つけることを恐れて停止した。
10分程して、2台のブルドーザーは破壊活動をやめ、戦車の近くまで戻った。私はまだ屋根の上にいた。レイチェルはブルドーザーに向かってメガホンで叫び、他のメンバーはISMの旗を掲げた。
戦車に乗っていた兵士は、我々に向かって卑猥な言葉を投げつけ、立ち去るように言った。彼らは地面に向かって威嚇射撃をし、そして催涙弾を発射した。しかし幸いにも風が吹いていたため、催涙ガスは我々までは届かなかった。数分間のにらみ合いの後、ブルドーザーは国境に沿って東に移動し始めた。我々は、彼らがやっと破壊活動を諦めたのかもしれない、と思った。念のため、5人のメンバーがブルドーザーについて行った。私は屋根から降り、戦車の運転手とメガホンを使って話そうとしているレイチェルに加わった。
兵士達はレイチェルに近くに来るように言ったが、彼らがあまりにも野蛮で挑戦的な態度だったために、レイチェルは拒否した。

15:00-16:00
その時、再びブルドーザーがパレスチナの土地に侵入し、他の6人のメンバーがそれを阻止しようとしているのに気付いた。我々は戦車のそばを離れ、彼らと合流した。この時、1台のブルドーザーがアメリカ人のメンバーであるウィルを、有刺鉄線の瓦礫へ押し込んだ。幸運にもブルドーザーは彼に大怪我をさせないために途中で止まったのだが、我々は彼を瓦礫の山から掘り起こし、服に絡まった有刺鉄線を引き剥がさなければならなかった。1人の兵士が状況を確認するために戦車から顔を出した。彼は我々の被害にそれなりにショックを受けていたようだが、何も言わなかった。

16:00-16:45
我々は再び破壊活動からパレスチナの家を守るために、建物の上に登った。今度もブルドーザーの兵士達は手を振り、笑い、また卑猥な言葉を吐いた。中にはヘルメットを取ってカメラに向かってポーズを取る者までいた。

16:45-17:00

1台のブルドーザーが、レイチェルや他のメンバーがいつも宿泊している、我々の友人であるパレスチナ人医師の家の周りを破壊し始めた。
レイチェルはブルドーザーの進行方向に座り込んだ。
彼女は蛍光色のジャケットを着たまま、ブルドーザーの15m程前方に座っていた。そして破壊活動を止めようと腕を振り、叫んだ。だが、ブルドーザーは停まることなく、レイチェルの方へ真っ直ぐ進んで行った。次第に彼女に接近し、ブルドーザーが彼女の直前の地面の土を掘り起こし始めた時、レイチェルはブルドーザーに押されている瓦礫の山の上に乗った。
彼女はほぼブルドーザーの運転手の目の高さにいた。そして彼女の上半身は排土板(ブルドーザーの刃のようなもの)の上まで出ていたので、運転手は確実にレイチェルのことが見えていたはずである。
にもかかわらず、運転手は前進を続け、瓦礫と一緒に彼女の足を巻き込んだ。しかし、もしここでブルドーザーを停めていたら、彼はレイチェルの足を潰しただけで済んだはずである。だが彼はさらに前進し、彼女をブルドーザーの下に引き込んだ。
我々はブルドーザーの方へ駆け寄り、手を振って、叫んで、運転手を止めようとした。しかしブルドーザーは、レイチェルの体が運転席の真下に来るまで進み続けた。
もちろん、その時点で運転手はレイチェルがブルドーザーの下にいることはわかっていた。
だがブルドーザーは排土板を上げることもせずに方向を変え、そして今度は逆方向に進み、彼女の体を排土板で再び引きずった。そしてブルドーザーは、重傷を負ったレイチェルを砂の中に残し、100m先の国境へ戻っていった。

3人のISMのメンバーが、すぐに救命治療を始めた。
レイチェルの体は押しつぶされ、顔は血だらけで、肌は次第に青白くなっていった。彼女は「背骨が折れた・・・」と言ったが、それ以外口を開かなかった。メンバーは、彼女が血を吐いた場合に備えて、体を横にし、首を真っ直ぐに支え続けた。
あるメンバーは、彼女が脳内出血をしているのに気付いた。そしてレイチェルの状態は単に背骨が折れているだけではなく、もっと深刻なものだとわかった。
そして彼らは、レイチェルの意識を保つために彼女に話しかけ続けた。
その時、1台の軍の戦車が、状況を確認するためにこちらへやって来た。私は兵士に向かってレイチェルがブルドーザーに轢かれ死にそうなことを叫んだが、兵士はただ無線でどこかと連絡をとっているだけだった。
一人のメンバーが、近くに住むドクターの家へ彼を呼びに走った。私は、持っていた携帯電話が緊急通話がかからなかったため、パレスチナ人の友達に救急車を呼んでくれるよう頼んだ。
そしてあるメンバーは、イスラエル兵に向かって、救急車がこちらへ向かっていること、救急隊員や医師を撃たないでくれということを叫び続けた。
ドクターがやって来た。彼はレイチェルを安全なところへ運ぼうと言ったが、彼女の状態はひどく、我々には不可能だった。ドクターは綿棒を使い、レイチェルの顔から吹き出る血を拭き取っていた。

17:00-17:15

救急車が到着した。救急隊員は、国境近く、射殺されるという危険を覚悟でレイチェルをストレッチャーに乗せ、救急車まで運んだ。その間我々は、イスラエル軍から救急車と救急隊員を守るため盾になり、彼らとレイチェルを守った。なぜなら、過去にイスラエル軍は、こうして救急活動をしている救急車や隊員を幾度も砲撃したことがあるからだ。
救急隊員がレイチェルをストレッチャーに乗せている間、一人のメンバーが、彼女を轢いたブルドーザーのシリアルナンバーを写真に撮ることを提案した。そこで私は、戦車の脇を通って国境地帯を歩き、ブルドーザーの写真を撮り始めた。すると運転手は私に向かって何か叫び、シリアルナンバーと彼の顔を撮られるのを防ぐため、ブルドーザーを移動しだした。
だが、私はなんとかシリアルナンバーの撮影に成功した。ただ、窓にはスモークがかかっていたため、運転手の顔を写真に収めることには失敗した。
私がブルドーザーの写真を撮っている間に、レイチェルは救急車の中へ運ばれていた。この時点で彼女はまだ息をしており、目も開いていた。しかし彼女が激痛に襲われていたのは明らかだった。4人のメンバーがレイチェルと共に救急車で病院へ向かった。彼女はすぐに救急救命室へ運ばれ、私がタクシーで病院へ到着した時にはまだ救命室の中にいた。

17:20

レイチェルの死亡が告げられた。彼女は救命室から再びストレッチャーに乗せられ出てきたが、顔には白い布がかけられていた。

「It's over」。レイチェルと私の友人であり、我々と共に活動しているパレスチナ人医師は、涙を溜めて言った。 信じられなかった。そしてリアルではなかった。全てがあまりにも早く起こり、私は彼女の死を受け止めることができなかった。
私は朦朧としていた。
しばらくして、他のメンバーが泣き出し、私もいつの間にかその中に加わっていた。報道のテレビカメラが回っている中で、医師は我々に慰めの言葉をかけてくれたが、私は何も言うことができなかった。

そして・・・

私は未だにこの出来事を事実として受け入れることが困難である。私はレイチェルについて、些細だがいろいろなことを覚えている。例えば、ジュースが好きだったこと、いつもパレスチナの女性から貰ったヘンなピンクの上着を着ていたこと。私は彼女が死んでから、タバコを吸い始めた。そして私は、一年前からタバコをやめていたレイチェルがここラファに着いた夜、砲弾の飛び交う国境地帯のテントで生活し始めてから、再びタバコを吸い始めたことをみんなに伝えて行こうと思う。威嚇のために撃たれた銃弾がテントのてっぺんに当たったこともあった。
彼女はそれ以来ずっとタバコを吸っていた。私はレイチェルに、肺ガンで死ねる程まで長生きして欲しかった。多分、将来は私がレイチェルの代わりに肺ガンになるんじゃないかと思う。

ラファに来ようとするボランティアはあまりいない。
なぜなら、報道でその被害が知られているのは、主にウエストバンク(ヨルダン川西岸のパレスチナ自治区、ナブルスやジェニンがある地域)のことばかりだからだ。しかし、レイチェルはラファのことを、この町がいかに世界から、そしてボランティアの人々から気にも止められていないかということを友人から聞き、すぐにここに来ることを決断した。
ラファは、実際はパレスチナ自治区の中でも軍に殺される人間の数は最も多く、また最も貧しい町でもある。ここは世界で最も危険で、そして世界で最も貧しい町の一つなのだ。もちろん彼女はそれがわかっていてラファへ来ることを決めた。

レイチェルと私は同じ大学に通っていたが、ただ少し面識があるだけだったので、彼女からラファへ来るというメールをもらっても気付かないところだった。でも彼女のような熱心でリーダーシップのある人間が我々に参加してくれることは、とても嬉しいことだった。
レイチェルは、彼女の住んでいるワシントン州のオリンピアとラファを姉妹都市にするため、少なくとも4ヶ月はここに滞在するはずだった。オリンピアという街はいくつかの姉妹都市を持っていて、それぞれがお互いの町の人々や公共団体によって繋がっていた。病院や学校、市議会や会社、また多くの個人が姉妹都市間で交流したり、助け合っていた。
レイチェルはラファでたくさんの人々や組織と交流を持った。彼女の目標は、オリンピアの人々をラファに呼び、また、いつの日かラファの人々をオリンピアに迎えることだった。
私は彼女の代わりにこの素晴らしい夢を引き継ぎたいと思っている。

こういった活動は、レイチェルの特徴を本当によく表している。
彼女は驚くべき積極性を持ち、こういった活動を考え出したり、困難な計画を最後までやり通すことを全くいとわなかった。私は、これらの活動を通してレイチェルとたびたび会う機会があった。
オリンピアは、「人類の行進」と呼ばれるすばらしいイベントを毎年行っている。それは年代、人種、政治的思想の違いなどを超えたあらゆる人々によるパレードである。
参加者はそれぞれ植物や動物など特定の種を表す様々な形、色、大きさのコスチュームや人形を作る。レイチェルはアフガニスタンでの戦争が行われていた2002年4月、アフガンや世界中で行われている戦争への抗議を示す鳩のコスチュームのグループを組織し、このパレードへ参加することを決めた。
彼女は広告を作り、電話をかけ、たくさんのe−mailを送った。そしてグループのメンバーが協力するために会合を開いた。私は以前から大小様々な人形を作った経験があったので、レイチェルは私に手伝いを頼んだ。もちろん引き受けた。私は、彼女が楽しくて創造的な人だという以外にも、驚く程情熱的で論理的だということも発見した。彼女は自分自身で、12フィートを超えるものや自転車に乗せるものなど、30個もの鳩を作った。そのメッセージは、わかり易く独創的だった。

もっと彼女の性格をあらわすものとして、私は彼女の楽しい行動を忘れることができない。時折彼女は奔放で気の向くままに動き、皮肉を言っては相手を笑わせた。明らかにレイチェルは、7週間の滞在でここラファの人々に強烈な印象を残した。

レイチェルの追悼集会には、数えられないくらい多くの人々が集まった。彼らはすべてレイチェルと親交のあった人、彼女が愛し、信頼した人達だった。レイチェルは、ラファの子供達をとてもかわいがっていた。小さな子供が我々のオフィスを訪れることはめずらしいことではなく、彼女はいつもソーダやキャンディを用意し、子供に混じってサッカーをしたりしていた。子供達は心からレイチェルを慕っていたし、彼女も子供達をとても大切に思っていた。
レイチェルはその中でも、彼女が命を犠牲にして守った家の住人である医者とは特に親しかった。彼女は彼らの家に何回も泊まり、彼の奥さんと子供のことが大好きで、本当の家族のように思っていた。だから私は、レイチェルが彼らの家や財産を守るために命をかけたことには全く驚かない。

レイチェルは、他にもイスラエル軍に脅かされていた人達の家に泊まり、どの家の人々ともすぐに親しい関係をつくり上げた。パレスチナの人々は皆レイチェルに泊まりに来てもらうことを望み、もし彼女がパレスチナを離れることになったらどれだけ悲しいかということをいつも話していた。
我々は国境近くの、軍の破壊活動が迫っている多くの家々に泊まった。イスラエルはすでにラファ地区だけでも700件以上の家を破壊し、現在建設中である高さ12mに及ぶ鉄の壁をエジプトとの国境に沿って造ろうとしている。
イスラエル兵たちは、戦車に乗って国境地帯を巡回し、まだ付近に残っている家を幾度となく銃撃している。それは気まぐれで、パレスチナ人の抗戦に対するものなどでは全くない。
私たちは多くの家や場所にISMの旗を掲げ、破壊活動と同じようにこれらの無差別な銃撃をやめさせようとした。必要に応じて、我々の存在をイスラエル軍に知らせるため、照明装置や反射材、メガホンを使った。

レイチェルは、イラクの人々との連帯を示すデモも企画した。それは3月の開戦の日に行われ、悪天候にもかかわらず数百人のパレスチナ人を集めた。彼女の作った旗には、「No War on Iraq, No War on Rafah」と書かれていた。
彼女は、前述したパレスチナ人の人々のための人間の盾運動にも積極的だった。とりわけ、つい先日イスラエルによって破壊された2つの大きな井戸を守ることに熱心だった。彼女はイスラエル軍の戦車が近くにいない時でも、井戸の修復をする人達とともに一日中を過ごし、再び軍が破壊活動を始めようとする時にはいつでも立ちはだかれるように備えていた。

私は、大切な友人であり、一人の優れた活動家であるレイチェルを失ったことがとても悲しく、また彼女が数千人ものパレスチナ人と同じようにイスラエル軍によって殺されたことに激しい怒りを覚える。そして彼らが将来国際世論や反対意見に対してどういった行動をとるかということを、脅威に感じる。これは、すべてのパレスチナの人々と同じ思いだろう。
私は、レイチェルが見せた勇気や献身的な行動から多くのことを学び、このイスラエルの残虐な占領に抵抗し続けて行くことを決心した。私は、結果的に彼女自身の死に繋がったレイチェルの不動の決意、正義というものを決して忘れないだろう。

我々は、この事件が今後我々にどのような影響をもたらすかまだわかっていない。今後の我々の活動が有効性を持つかどうかは、レイチェルが殺されたことについて世界がどう反応するかにかかっていると思う。もし世界がこの事件を気に留めず、イスラエルが「外国人を殺しても何ら処罰を受けない」ということを学ぶことになったら、人間の盾としての活動は全く無意味なものになってしまう。その反面、仮にイスラエルが世界から非難を受けた場合、レイチェルのこの悲惨な事件は我々のこれからを助けてくれる重要なきっかけになるだろう。
イスラエル軍は、我々がここから逃げ出さず、残酷なパレスチナへの占領に対して平和的な抵抗を続けることをわかっている。実際に私達の中の一人としてここから逃げようとする者はいないし、我々はこれからも今まで以上の情熱でラファでの活動を続けていくだろう。

ただ、私はこの件に関してはアメリカ政府からの反応は期待していない。なぜならレイチェルを殺したブルドーザー、D9はアメリカの企業である Caterpillar 社のものだし、それに加えてアメリカの対外援助の4分の1がイスラエルへ、主に軍事援助の目的で行われているからだ。
イスラエルは600万の人々が住む、アフリカ大陸にある国々を全て合計したよりもずっと裕福な先進国である。イスラエルはアメリカのどの州よりも、アメリカ政府からの援助金を受け取っている。イスラエル兵はアメリカ製のM−16ライフルでパレスチナ人を銃撃し、アメリカ製のアパッチヘリやF−16戦闘機で彼らの土地を爆撃している。
イスラエルにあるアメリカ大使館は我々の命が危険にさらされていることを知っているが、何もしようとしない。私は将来もこの大使館の無関心は続くだろうと思うが、願わくば我々がパレスチナ人のためにしていると同じように、大使館が我々アメリカ人の安全を保障するよう働きかけてくれることを望む。
私は、アメリカ政府はこの事件を残念なこととして発表すると思うが、同時に彼らは結局イスラエルを擁護し、これは我々無謀な若者による無責任な行動が招いた事件だということに決め付けると思う。
おそらくこの件については現在何らかの形で調査が行われているだろうが、誰も我々には話も聞きにこないし、調査員は破壊された場所や本当の被害状況を見ることも無いだろう。
事件の調査状況を操作するというのは、罪があるという明らかなサインである。
レイチェルの死を追悼するために、我々はパレスチナのしきたりについて調べた。パレスチナでは死者を追悼するために3日間を費やす。最初は街中を行進し、次に数多くの弔問客と共に死を悲しむ。放浪の民の伝統で、コーヒーやデイツ(アラブ地方の木の実)がふるまわれる。並んだイスに家族、今回は代わりに我々仲間のメンバーが座り、弔問に訪れたパレスチナ人達と握手をする。広いテントの中には来客用のイスが並べられ、スピーカーからは故人に関するアナウンスと共に、美しいアラビア音楽が流れる。
いたる所に、殉教者であるレイチェルの写真や似顔絵が書かれた看板や旗が掲げられていた。このようにして殉教者の写真や言葉を載せたポスターを作り、家々に貼ることはパレスチナ人の慣習であった。レイチェルのポスターも、何千枚ものコピーが作られラファ中に配られた。我々は、彼女が一晩中熱中していることもあったインターネットカフェや、その他にもレイチェルがよく訪れた場所にそのポスターを貼った。
私達は、そのポスターの上部に「レイチェルは、戦車を止めるためにここにやって来た」とプリントした。これは、レイチェルの日記から引用した文章だ。

パレスチナ人は、信じられないくらい我々に協力的である。我々は、彼女の死によって、この占領下における凄惨で無神経な暴力へ世界が目を向けてくれることをただ願うのみである。
この、一人のアメリカ人の平和活動家の死は、イスラエル軍がいかに頻繁に非武装の市民を殺しているかという事実を示している。更に、我々はレイチェルが死んだのとほぼ同じ時刻に、ラファの他の地域で殺された若いパレスチナ人のことも忘れてはならない。彼は、戦車が無差別発砲をし始めた時、たまたま道を歩いていただけだ。彼の死は、他の何千という罪の無いパレスチナ人達の死と同じように、今また忘れ去られようとしている。

何人ものパレスチナ人が、「おまえ達はもう我々パレスチナの一員だ」と言ってくれた。「以前は部外者だったが、今はもうおまえ達は我々のことを理解し、我々を知っている。」と。
我々の滞在しているアパートの近くの壁には、スプレーでこう落書きされている。
「レイチェル・コリーは、パレスチナの血を持ったアメリカ人だった」
その落書きが、全てを語っている。










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以上、乏しい英語力ですが、誤訳を覚悟で訳してみました。


この文章の原文やパレスチナの状況については、ISMのホームページに記載されています。英語がわかる方や、写真だけでも見たいという方は、直接こちらをご覧下さい。


ちなみに僕はISMの活動家でもなんでもありません。
レイチェルと一緒に仕事をしたのもほんの一瞬でしかありません。おそらくもしあの日にこのような状況になっていたら、僕はレイチェルを置いてスタコラ逃げ回っていたでしょう。
しかし心から彼女を尊敬して、冥福を祈りたいと思います。