〜ラリベラ〜 デセからラリベラへ向かう道は、21世紀とは思えない太古の景色への進入の連続であった。あまりに未開の風景が続くため、次の町へ移動しているというよりこのバスのドライバーは新大陸でも発見しようとしているのではないかと思ってしまったほどである。しかもエチオピアなら探せばありそう(陸路にもかかわらず)なのでこわい。 見渡す限り山と谷が続き、険しいところでは切り立った崖の上や山肌に僅かに整えられている車体ぎりぎりの幅の道を進んで行く。1mでもずれようなもんなら谷底にまっ逆さま、とにかく道幅と車幅の尋常じゃないギリギリ具合はあの頃の飯島愛の尻とTバックの関係を思い起こさせるほどである。ギリギリガールズでもよい。 頼む、とにかく落ちないことだけを考えてくれ。この際落ちずにすみさえすれば、スピードがどうとか快適さがどうとかバスのレベルがどうのこうの言うことはない。オレの大学時代の後期試験と同じ状況である。通れさえすれば全部「可」でいいのだ。オレの場合は落ちたが、今回だけはなんとか落ちずに行って欲しい。 とにかく人里離れること尋常な距離ではなく、原人の時代から数百万年の歴史あるアフリカの原生林や自然の中をさまよい淡々と進んで行く。そこらへんでのび太やしずかちゃんが大長編のロケを行っていても不思議ではない秘境っぷりである。バウワンコ王国も多分このあたりだ。これくらいの奥地になると物語も佳境に入って、そろそろジャイアンが男気を見せるシーンを撮影しているころだろう。ちなみに作者はそのへんでいつもひと泣きする。 それでも秘境の中でたまに人間の姿も見かけるのだが、子供などは体の前面に布1枚だけまとった姿で完全に尻が見えていたり、槍のようなものを持った原住民がいると思ったらなぜか全員巨大なアフロヘアーの未知の民族であったり、もはや明らかにバスの外の景色という概念を超越していた。この日だけで実に数多くの種族の方々を見た。きっと中には何人かクロマニヨン人や縄文人も混じっていたことだろう。 だいたいここまでアフリカ大陸を全て陸路で進んできているオレ様(たくましい冒険者)がまだ初々しく驚けるというのが、エチオピアの底知れぬエンターテイメント性のすばらしさを表しているではないか。ただ、この風景をテレビで特集していたらかなり熱中して見てしまうであろうが、旅をしている立場としては「そんなことより10ドル出すから豆腐とわかめのみそ汁を飲ませてくれ」と、その他の環境の悪化によりもはや少数民族や景色などどうでもよくなっている。 尚、アジスからここまで、同じバスに一組の日本人カップルが同乗している。彼らは名古屋在住のウララカオルコンビといい、ナイロビの宿で会ってまたエチオピアで再会した腐れ縁である。通常の観光地であればカップルを見かけたら魔法をかけて不幸にするところであるが、この国ではお互い心から味方を必要としており、オレ達は既に小泉・ブッシュなみの援助への期待に則った深い関係になっている。 ちなみに女性の方がウララで男性がカオルなので本人の了承を得ずにウララカオルコンビと名づけている。途中人間の世界から100kmくらい離れたと思われる山の上でバスが故障し、1時間くらい草原で放置された時、オレ達が話していたことはアフリカ旅行者同士の会話としてふさわしい、「味噌カツ食いたい」であった。もはやお互い食への渇望が限界に達している。 ところで昨夜オレは星空を見て「エチオピアで初めてキレイなものを見た」と語ったわけであるが、このバスでオレは2度目のキレイなものを見て、エチオピア人を少し見直すことになった。 途中、山奥の集落で一人のじいさんが家族に抱えられてバスから降りて行った。今までオレは彼が乗っていたのに気付かなかったのだが、病院帰りなのだろうか、とにかくもう骨の形が見えるくらいやせ細っていて、生気も全く無く、素人のオレから見ても完全に死にゆく人、死を待つだけの体であった。 すると、彼らが降りてバスが再び走り出そうとした時、一人の乗客が窓から金を放り投げたのだ。しかし家族はじいさんを抱えるのに一生懸命で気付かない。そこで今度は、バスの乗員が運転手に言って停車させ、外に出て金を拾って家族のところへ渡そうとした。ところがどうだろう、その瞬間バスの中の他の乗客が次々と自分の財布から紙幣を取り出し、乗員が帽子を持ってその間を回ると、帽子が満杯になるほどのお金が一瞬にして集まったのである。もちろんそのたくさんの寄付は、全てじいさんと家族へ手渡されていた。 今までのエチオピア人のイメージを覆す、立派な民族愛を見せられたような気がする。そしてこの日のオレの日記からは、エチオピア人への悪口は消えたのである。そして次の日の日記からはまた悪口が復活したのである。 さて、昨日に引き続き11時間の長旅を経た、標高2600mまで上ったところにひっそりと存在している村がラリベラである。とにかくこれだけ奥地であるので、86歳の長老に気に入られなければ立ち入りが許されないという掟がありそうなくらいの規模の小ささなのだが、実はその全く逆、この村はエチオピア随一の観光地として、援交で荒稼ぎする女子高生の貞操観念くらいオープンになっているのである。 もちろんエチオピア随一の観光地といってもそもそもエチオピアに観光旅行に来るやつはいないので、観光客がごったがえしているようなことは今世紀も来世紀もない。ただ、北からまたは南からエチオピアを通過する旅人にとってはここはせっかくだから外せない場所なのである。 せっかくだから外せないという表現は分かり辛いかもしれないので少し例を出して説明すると、例えばオレが仕事を終えて目黒から帰宅する途中、新宿で乗換えをしようとしたらホームで円広志の無料コンサートをやっており、プログラムを見たら次の曲が「とんでとんでとんで……♪」で有名な夢想花だったので、「うーん、別に円広志にはあんまり興味ないけど、せっかくだから唯一知っている夢想花だけでも聞いていくか」となったとする。この場合の目黒からオレの家までがアフリカ大陸、円広志がエチオピア、夢想花がラリベラである。 ……どうでしょう、例えを出さなかった方がよかったでしょうか(涙)。 ということでラリベラの位置づけをよくわかっていただいたところで、結局そのラリベラに何があるのかというと、世界遺産になっているいくつもの教会があるのである。12世紀に出来たものらしいのだが、その教会の全てが、もともとそこにある岩盤を彫像でも彫るようにくりぬいて造られたものなのだ。オレはキリスト教徒ではないので教会なんてものには冒険の書をつけにいく時くらいしか行く機会がないのだが、最近ドラクエもやっていないのでたまには現実の世界で教会を訪ねてみるのもよいだろう。ただ、ゲームと違って旅の場合は、途中で教会に立ち寄ったからといって、今後全滅してもリセットすればここに戻ってこられるというわけではないので注意が必要である。所持金も半分になるのではなく全額どころか装備品まで全部持ってかれるだろう。人生にリセットはきかないんだよ!!! というよく聞くセリフを実感する次第だ。旅人は富樫や飛燕と違って何度も蘇ったりすることはない。そしてこの段落の文章は、読む人によってはなんのことだかさっぱりであろう(泣)。 さて、教会群を訪ねるとまず出会うのが、教会の周りの穴に住んでいる人である。彼らは別にアパートの家賃が払えないわけではなくまたそういう新種でもなく、修行のため、求道のためにあえてそこに住んでいる僧侶なのである。が、なにしろその広さは人ひとり入っても断然狭い、座高分くらいのスペースしかないのだ。もちろん家具も明かりも家庭用50インチ大画面ミニシアターさえも存在しないただの暗闇。今時こんなギリギリの空間に自ら入ろうとするやつは冬眠に向かう熊か営業中の引田天功くらいである。 もちろんここはただの住居であるので彼らも必要に応じて外出するわけであるが、それでもここで何十年も住んでいられるというのが奇跡としか思えないと同時に、正直私はこんな恐ろしいことをさせてしまう宗教に疑問を覚えるのである。僧侶の家族は、彼らをこんなにしてしまう宗教この場合キリスト教に、嫌悪感を抱かないのであろうか。オレが家族だったら絶対やめさせる。といっても、エチオピアの場合は穴の中に住んでも普通に村に住んでもたいして生活水準が変わらないという意見もある。 ちなみに穴の中に住んでいたら、税務署の役人が来てもとっさに穴から出て、「私はホームレスです。あれ? こんなところに穴が空いているね。なんの穴かなあ?」ととぼけることで住民税を払わなくても済みそうだ。 奥まったところにはまた別の穴が、つまりこの岩山は教会の他にもいろいろ岩盤を掘っていて穴だらけなのだが、そのひとつには昔修行をしていて死んだ僧侶の 遺体 がそのまま残っている。 ……。 ひえ〜っ!!!! というかここ教会だろ? 葬ってやれよっ!!!!! もうエチオピアならなんでも許されるのか。日本だったらこれは立派な死体遺棄、富士の裾野あたりで教団ごと摘発されるべき状況ではないか。しかもガラスケースに入っているわけでもなく、柵で囲ってあるわけでもなく、はっきりいって全然大切にされていない。かわいそうな元修行僧Aさん(仮名)。しかも大切にされていない上に、希望者なら誰でもお持ち帰り自由な状態である。持ち帰らないがな。 しかしこの遺体の彼は、一生を修行に費やしたのはいいが、その結果ちゃんと死後の平穏を得られたのだろうか。死んでからもえらくぞんざいに扱われている上に見世物になって旅行者にジロジロ見られているし、いまいちくつろいでいるようには見えない。修行なんてしなかった方が平穏に死んでいられたんじゃないだろうか。 ところで肝心の教会なのだが、数は豊富にあり第1から第2、第3 ただここの教会にはそれぞれ主の僧侶がおり、彼らは教会ごとに古くから伝わる由緒ある十字架を持っていて、以前北からの旅行者に聞いた話によると、そちらの方はなかなか雰囲気があってよいということだった。十字架は一人でお願いしてもなかなか出てこないのだが、何人か客が集まって僧侶の気が乗るとジャンジャーン!! とおごそかに公開してくれるということなのだ。 一人で行動していたオレはこれがなかなか見られなかったのだが、ある教会でたまたま他の旅行者と一緒になり、遂にジャンジャーン!! と由緒ある十字架の登場を迎えることが出来た。そこでオレがとっさにカメラを構えると、十字架を持っている僧侶は厳しい口調で言った。 「おいきみ!! フラッシュはいかん!」 うーん。残念ながらフラッシュは禁止だそうな。古い絵画や建造物などは、強い光によってダメージを受けることがありフラッシュの発光が禁止されているということも多い。教会の内部は暗く、このままではまともに撮れたもんじゃないのだが、しかし歴史のある貴重な十字架である。ここは仕方がないか。 オレが素直に写真をあきらめようとすると、何を思ったか僧侶は背後の道具箱からサングラスを取り出して、渋く身に着けた。 「さあ、これならフラッシュ焚いてもいいぞ!」 ……。 ※写真提供:ウララカオル あんたがまぶしいというのが禁止の理由かよ!!!!! 十字架への影響とかそういう問題ではなかったんですね(号泣)。 「どう? 白人の旅行者から買ったんだ。似合っているだろう」 「……まあ、ぼちぼちですね」 「へー。じゃあもう外そ。もちフラッシュはダメな」 「お、お坊さんシブいっ!! 柴田恭平かと思った!!!」 「おおそうか。しかし我々はお坊さんじゃないぜベイビー。僧侶だから。関係ないね」 「かっこいい!!! 次のあぶない刑事ではタカ、ユウジ、オッサンのトリオ主役間違いなし!!」 「よしよし、いくらでもフラッシュを焚きなさい」 ……。 なんなんだこの意味不明な世界は。 まああぶない刑事の続編はもはや昨今のハードボイルドの衰退によりあり得なくなったが、しかし歴史あるこの天然の教会の僧侶ともあろうものが、サングラスなどハイカラなものをしていいのだろうか。しかもサングラスがちゃんと光量を軽減するということを知っているのが凄い。おそらく彼はドラゴンボールを読んだのだろう。 まあ結局フラッシュOKになったのはいいことだが、「値打ちのある十字架の写真」を撮ったつもりが、おっさんのキャラクターが異質すぎてどう考えても「サングラスをかけた僧侶の写真」になってしまっている。おっさんとしても、インパクトで十字架に負けるのがいやだったのだろうか。だがそこで張り合う必要は無い。 尚、この日オレは午前中は地元のガキをガイドに雇い2人で、そして午後は再び第1の教会から、アジスからの友人であるウララカオルコンビと一緒に周っていた。もちろん2回も見るようなところではないが、なにしろこの辺境の村では他には瞑想くらいしかやることが無いのでな。ところが日本人3人固まるとやはり妙に目立つらしく、さっきは周囲で背景のように控えめに存在していた民間のガキどもがざわざわと寄って来ては、 「チ○コマ○コ!! チ○コマ○コ!!!」 と日本語で口々に叫ぶのである。 一体誰がこんな最悪な言葉教えたんだ?? 誰か恥さらしな日本人ツーリストが教えたのか、もしくはガキどもが独学で身につけたのだろうか、とにかくわざとなのか本気なのかガキ共は「日本語ではナイストゥーミーチューのことをチ○コマ○コというんでしょう?」と言い出す始末。 「おいおまえら! そんな言葉は使ってはいけません! それはとても悪い言葉だよ!!」 「そうなの?」 一社会人としてまた人生の先輩として、未来を担う子供達に美しい日本語を使うよう説教をすると、ウララカオルコンビも向こうの方でガキ共を叱っている。さすが2人とも大人である。 「コラ! チ○コマ○コなんて言うんじゃない! 日本にチ○コマ○コなんて挨拶は無いぞ!!」 「そうだよ! チ○コマ○コは使っちゃいけない言葉なんだよ!!」 おまえらも普通にチ○コマ○コ言うなっ!!!! それだけ自分らで連発して使っちゃいかんもクソもあるかよ!!!! しかも聞いている私が恥ずかしいです。まったく今時の若いもんは…… ということでウララカオルの2人は翌日もここに残り物好きにも山に登ったりするということだったが、とにかくこの国からの一刻も早い脱出に命をかけているオレは彼らに別れを告げ、翌日にはもう次の村へ向けて前進するのである。 今日の一冊は、新宿歌舞伎町駆けこみ寺―解決できへんもんはない |