〜新春氷河トレッキング2〜





 本来、このミニ登山への参加を決めたオレの決断には、なんら問題は無いはずであった。どのガイドブックにも乗っているお手軽な日帰りトレッキングコースに、この山に精通している地元のガイドと一緒にトライしているのである。
姑役の野際陽子でも「それなら安心ねえ。冬彦さん、楽しんでらっしゃいね」とにこやかに送り出すはずのなんでもない行動なのだ。
 ただ、オレがひとつミスを犯したとすれば、素人の俳句と同じく季節のことを考えていなかったということだ。それは、図らずともオレが日本でどれだけ四季というものと無関係な生活を送っていたかを示すものに他ならない。部屋の中だけで日常を遂行しているオレが季節を感じる機会といえば、
フジテレビの新人アナウンサーが1列に並んで順番にスポンサーを読み上げているのを見て「ああ、もう夏なんだなあ」とつぶやくくらいである。
 いかん。こんなに四季に無頓着では、
ビバルディに申し訳が立たない。





 振り返ると、このような不毛な斜面を延々と登って来ていた。ご覧の通り、
道など無い。「トレッキングコース入り口」という看板を通り過ぎたにも関わらずだ。これのどこがコースだっ!! 期待させるような看板を立てるんじゃねえよ!!! ウソつき!! 詐欺師っ!!
 ガイドのジャンちゃんによると、ここも春を過ぎればウルタル氷河目当ての旅行者がわんさかと、人通りも増えどんどん道が整って行くそうだが、なにしろオレは今年最初の挑戦者。ウルタル氷河にしてみれば、
登られ初めである。去年のシーズンオフから半年ほどこのコースは放置されており、道は荒れ放題、まだ湯浅弁護士のヘアスタイルの方が手入れされているのではないかと思う放置っぷりである。
 だいたい、一般的にはこのくらいの角度の坂道を普通に上るだけで大人は泣き女性はへたりこみ、
ドラえもんは転がり老人は天に召されるだろう。それがただの坂道ではない、この大荒れで大量の岩軍団である。既に疲労が疲労を呼びヒットポイントの数字が赤くなっているオレ(命からがらロンダルキアの洞窟を抜けた直後くらい)は、登るというよりはほとんどほふく前進の状態である。
 なにしろ、二足歩行をしようとしてもすぐ足元がガラガラっと崩れて両手の平を勢い良く岩にぶつけるハメになってしまう。転ぶように手をつくと岩が手の平に刺さって痛いため、ならばともう最初から四つんばいだ。両手両足を少しずつ動かして、長い斜面をソロソロと進む。……ああ懐かしい。
乳幼児時代を思い出すなあ。そして、このように岩の上を這いながらトレッキングに参加しているこの時間が、はたしてオレの人生において何かの意味を持つのかどうかは甚だ疑問である。
 しかし……、金を払っている。一度やり始めてしまった。ならば、進まねばならん。無駄だとわかっていても。
それが貧乏旅行者の宿命だ。
 ちなみに乳幼児時代といえば、こう見えてもオレはいきなり大人で産まれてきたわけではなく、一応それなりに赤ちゃんの時代があったそうだ。なんでも、
当時からオレはベビーベッドから出ようとせず引きこもっていたらしい。

 うう、こ、この石は踏めるかなあ? 崩れたりしないだろうなあ。怖いなあ……。
 ええい! ままよ!


 
ガラガラガッシャーン!! ズリズリズリズリ……(足をかけた石が崩れ、コケながら斜面をずり落ちている音)


 
ちょごごごごおお〜〜〜〜〜っ!!!! ああおおおおお……く、崩れた……。やっぱり崩れた……(涙)。
 くうっ、
ぬおおおおおおお〜〜〜〜〜〜〜っっ(四つんばいのまま手足をシャカシャカと激しく動かしなんとか停止)!!!!!
 ゼェ……ゼェ……ああ、暑い……。しんどい……。痛い。
手が、足が〜〜〜(号泣)。



「作者〜。ケガしてないか? 絆創膏ならあるから言えよ〜」


「か、皮はムケてるけど、手の平に貼ったってどうせ3秒ではがれちゃうよ……」


「そうだな。とりあえずあとひと登りすればしばらくは平らな道になるから。がんばれ」


「ほんとっ!? 平らな道になるの!! 本当だね? 信じていいんだねっ!! たいら!! 平らが一番!!」


「おまえ普段は平らは好きじゃないって言ってなかったっけ」


「それは女子の胸の話だろうがっっ!!! そっちは山がよくても、本当の山は平らな方がいいんだよ!!!」


「複雑なやつだな」


「でも、女性は決して外見ではありません。胸のある無しなんて人間的な魅力には一切関係ないのです」


「今さら誰も信じないんだけどその言葉……」



 ちょ、まじでもう限界だ……。これ以上筋持久力がもたん。
 しかし見上げると、天の助けかたまたまか、いや200%たまたまだろうが、ほんの数十メートルの斜面の先に見えるのは山肌ではなく空である。つまり、ジャンの言うとおりあと僅かで一旦は上りが途切れるということだ。オレは最後の力を振絞って
(まだまだこの後何度も最後の力を振絞ることになるのだが)四つ足で競走馬のように激しくいななきそして駆け、憧れの平面までとうとう上りきった。
 うーむ、手が冷たい。
「受験の神様」で成海璃子が生徒に接する態度より冷たい。手の平があまりにも冷凍されすぎて、他人の手のように感じる。この手であんなとこやこんなとこを触ったら、他人の手のように感じる関係上いつもよりだいぶ興奮しそうだ。というようにふと本来の変態な思想が脳裏をよぎるのも、危険な場面を終えて平らな道へ出たからである。なにしろ、平らはいい。揉み甲斐はなくとも、その分こちらの体力の消耗を最小限に抑えられるのだ。



「じゃあいいか作者、ここからは平らだけどあまり気を抜くなよ。はぐれないようにオレの後をついて来るように」


「そう言われても、既にキャンプ場から持ち帰ったコーラくらい気が抜けてるから(力の抜けた例え)。とはいえあんたねえ、いくらオレが山登りに不適格でも、
平らな道も四つ足でしか歩けないと思ってるのか!! さっきまでの醜態は、あくまで上りの岩場だったからだっ!! むしろ目をつぶっても歩けるんだよ!!! どんだけ目をつぶって歩き続けようと、平らな道に怖いものなどあるわけないだろうがてめえっ!!! いくらでも気を抜けるんだよっっ!!!


















 こわっっっっ!!!!!






 
なにか!! なにか命綱てきなものを!! もしくは落下防止用ネットを!!!

 たしかに平らだけどさあ、細いじゃん。
細すぎるじゃん。ジャンさん、細いじゃん。
 こわいんだよっ!!!!!

 ふと崖下を覗くと、
遠近法の影響で糸のようになった川がチョロチョロと流れているのが見える。いや、あれはもしかして遥か下方にある川などではなく近くにある糸なのだろうか?? 試しに手を伸ばして拾ってみようとするのはやめておこう。
 しかし、高さももちろん問題であるが、なんといっても高さより問題なのがこの細さだ。細すぎるのがどんなに危険なことなのか、
この道を作った奴と、極端なダイエットに励む若者たちに声を大にして訴えたい。せめて道を作る時に、将来先進国から来る引きこもり体質の旅行者がここを通るかもしれないというふうに、想像力を働かせてほしかった。
 先ほどは思わず「目をつぶっても歩けるんだよ!!」などと言ってしまったが、この細さでは目をつぶったら言わずもがな、岩壁から
ヘビでもにょろっと顔を出そうものなら「うぎゃっ!」と叫んで飛びのいた瞬間そのまま奈落の底へ落下して行くだろう。ヘビに驚いて「うぎゃああああああああああああああああああああああ……」と叫びながら何十メートルも落ちていったら、ものすご〜〜く驚いている人に見えるではないか。ガイドのジャンからも「おまえヘビ1匹にどんだけ驚いてるんだよ……」軽蔑の目線を送られながらの転落死になることであろう。

 ここはただでさえ、
この道が夏巡業に向かう途中にあったら8割の力士は転落するだろうと思われる狭さなのに、ひどいところは右側の岩が通路側にもろにせり出してきており、幅が1mも無い部分もある。
 もちろん、オレだって小学校の障害物競走では平均台も難なく渡っていたわけだから、道幅が1mもあるのなら、たとえダッシュをしても道を外れることはないだろう。それが平野部であったなら。しかしこの高さ、落ちたら悪くて地獄行き、
良くても天国行き(号泣)の状態では、体は自然に壁際に寄り、いつの間にやら両手を広げてペタっと岩にへばり付き、常に体の前面を壁につけながらソロソロとカニのように進むしかないのである。メタルギアソリッドかオレはっ!!!



「いいか作者、これからの道は滑ってコケるだけでも命取りだから、今以上に慎重にな。おまえは滑り易そうだから、ちゃんとオレが通った後を踏みしめて歩いて来るように。オレと違うところは決して歩くなよ」


「そう言われても、この細い道じゃああんたの歩いたところと違うコースなんて
空中にしかないだろうがっ!! だいたいなあ、滑る滑るって、雪が積もってるわけでもあるまいし、いくら道が細くたってそう簡単に滑るわけないだろうがっ!!! どんだけ運動神経鈍いと思ってんだよ!! いくら早足で歩こうが、ただの平坦な道で滑るわけねえだろうがてめえっ!!




















 おいっっっっ!!!!!






 
熱湯を!! 熱湯のような高い熱を放つものをください!! そしてジャージャーかけて全ての雪を溶かしてください!!

 たしかに平坦な道だけどさあ。
滑るじゃん。雪道じゃん。ジャンさん、雪道じゃん。
 オレ静岡育ちであまり雪にはなじみが無いけど、ニュースとかでは
雪は滑るって聞いたよ? たまに東京に雪が積もると、必ずドスンとコケて尻を打っているお姉さんがニュース映像で出てくるよね。あれって雪が滑るってことでしょう?
 東京では尻を強打してはずみでちょっともらしてパンティーに茶色い物質がつくだけで済むかもしれんが、ここでツルンといったら
直滑降である。とてもニュースで放映できるようなコミカルな感じではない。

↓横から見た図。
あなおそろしや(現代語訳:非情におそろしいことである)。



「あのー。さすがにこれは、これ以上の前進は無理なような気がします。だって細いだけでなく、雪が積もっているのですもの。怖いわ。ちょっともう、引き返した方がいいんじゃないかしら


「でもおまえ、まだトレッキングコースのほんの触りだぜ?? いいか、こういう言葉があるんだ。『この道をゆけばどうなるものか、危ぶむなかれ。危ぶめば道はなし、踏み出せばそのひと足が道となる』」


「じゃかましいっっっ!!! その格言は命に関わらない時限定なんだよ!!!」


「迷わずゆけよ。ゆけばわかるさ! 雪道が危険だってことが」


「わかりたくないんだよっっ!!!!」



 さすがに、いくらなんでもこの道をホイホイついて行くのは、正常な感覚を持つ人間ならば誰しも思いとどまるところであろう。少しでも理性があれば、このままトレッキングを続けるのがどれだけ馬鹿げたことか、気付くのは難しくない。
 しかし、オレは疲労と寒さと暑さと旅で
正常な感覚ではなかった。
 よ、よ〜し、ここは、ジャンの歩いた跡、ジャンの足跡にオレの足を直接はめて進むんだ。新しい雪は絶対に踏んじゃいかん。全神経を足の裏に集中させるんだ。
滑ったら旅と人生が終わりだ(ポックリ)。
 それにしても、我ながら愚かである。今引き返したら、ガイドのジャンに笑われる。格好悪い思い出が残る。ガイド料の元が取れない。ただそれだけの理由で、見たくも無い氷河のために自ら危険に突っ込んで行っているのである。というか、見たくも無い氷河のためにって、
なんでここにいるんだよオレはっ!!!!(一緒にトレッキングに参加すると思っていた女の子目当てです)


「夏になればもっと人が通るから、クリーンな道になるんだけどな。なんといっても今年最初だし、この時期だから。とにかく気をつけろよ」


「もっと近くにいてくれっ!! 落ちる時は道連れにするんだから!!」


一緒に落ちる方じゃなくて、一緒に助かる方について考えろよっ!!! いいか、危ない時は迷わずオレを掴めよ。オレはこれしきの雪じゃあ絶対に落ちないからな」


「た、頼もしい……。さすが雪山と共に生きて来た人は違うなあ」



 ……オレは、ウルタル氷河を
見たいのである。こんな恐怖を味わって尚進もうとしているのだから。そうだ。見たいに決まっている。
 いいか、滑らない……オレは滑らないんだ……。
ぜったいに滑らないねっ!! オレは滑らない体質なんだよっ!! 見ろ!! 旅行記のギャグも今まで一度だって滑ったことは無いじゃねえかっっっ!!!

 ……。

 今、モニタの向こうから
失笑が聞こえてきました。

 けっ。

 雪の細道が終わると、再び目の前には高い高い丘、ひたすら上へと続く斜面がそびえていた。そして岩がむき出しになったその山肌は、やはり雪に覆われているのであった。





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